「主なる神と交わる者」

ヨハネの手紙1 1:3-7

今、私たちが生活しているこの社会は、
個人主義に変わってきています。
創世記を読んでみると、

「主なる神は言われた。人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」
2:18

と書かれています。
人はお互いに交わりながら、
友達をたくさん作り、知り合いもたくさん作って一緒に生きるのが
神の創造的な原理であります。
どのような人に出逢って友達になるか。
それは自分の人生が影響を受けるきっかけになります。
聖書はなんとおっしゃいますか。
キリスト者ならキリスト者に出逢うものです。
一度しかない人生の中で、
キリスト者に出逢う素晴らしい恵み。
それはキリスト者を通して、
イエス・キリストとの交わりができます。
3節にヨハネはこのように書きました。

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、
 あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。
 わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」

聖書にある交わりという言葉は、
ギリシャ語でコイノニアといいます。
コイノニアというのは、ただの親交という意味だけではなく、
支えるという意味もあります。
だから、このコイノニアを通して交わっているすべての人たちの心に、
光である神様の喜びが、光である神様の素晴らしい恵みが
満ち溢れるようになるんだということです。
キリスト者との出逢いを通して、交わりを通して世の力ではなく、
神の力がわたしたちに与えられます。
わたしたちが純粋な信仰を持って変わるとその時から、
この世の力とは比べることのできない素晴らしい信仰の力、強い力、
信じる者の力になります。
これを通して神様が栄光を受けてくださいます。

「わが道を走り通すように」

創世記 47:7-10
韓国シウン教会 崔七龍牧師先生

今日の本文は、
天の民としてこの世で旅人として生きたヤコブのお話であります。
彼は元々ヘブライ民族であります。
そして年老いてエジプトにやって来ました。
しかし自分の人生を一言で旅路、旅人というヤコブの言葉には深い意味があります。
この世のどこに生きていても、
私たちの人生は旅人の人生であります。
アブラハムも言いました。
私たちの故郷は神の国、天の国であると。
この世に来るときは順番に来ますけれで、
天に帰る時は順番通りに行きません。
これは創造主なる神様の摂理であります。
やがて私たちが戻る時、
天国と地獄があるといいます。
しかし聖なる旅人は、只々神の国を目指して帰ります。
命の主人である神様の前で、私たちは何ができるでしょうか。
何度も強調し伝えるように、私たちの人生は旅人です。
そして私たちが今まで生きた年月を考えた時、
あっという間で本当に空く霧のような、とも感じるはずです。(ヤコブ4:13-15)

その年月を私たちはただ終えるのではなく、
聖なる旅人として信仰によって生きなさい、
と神様は私たちに伝えています。
この旅路は短く、やがて終わりがすぐ来るから、
みなさんが神様の前に、信仰により天国に向かって一生懸命、
神様と共に歩むなら幸いなものであります。
愛する神様がみなさんを背負って、
この苦しく短い旅路を共に歩んで下さいます。
そして天の国にまで、迎え入れてくださいます。

「力の源である主なる神のみ言葉」

テサロニケの信徒への手紙1 2:13-16

聖書は、
一人の魂がイエス・キリストを信じ受け入れることについて
「新生」、すなわり新たに生まれたと語ります。
そして魂は、その時から霊的な糧である神のみ言葉を学んで自分の心に受け入れ、
その通りに適用しながら服従すること。
これが私たちが主なる神様のみ言葉を食べることであります。

そして成長し、この世で出会うさまざまな誘惑・試練や悪霊と戦い、
信仰によって勝利者の道を歩むことができます。
テサロニケ教会の聖徒たちは、
イエス・キリストを真実という理由だけで
同じ民族から迫害を受けました。にも関わらず、
最後まで自分の信仰を守り、
マケドニア州のすべての信者たちの模範になったと聖書は伝えています。
それでは彼らの力ある美しいこの世の中での信仰とは
どこから出たのでしょうか。
それは神様のみ言葉から出て来たことが解ります。
神の力、これはみ言葉を通して私たちに与えられる力です。

神様のみ言葉は私たちに力を与えてくださり、
勝利を約束されることを信じましょう。
「ヘブライ4:12参照」神様のみ言葉をその通り受け入れた結果は、
難しい現実的な難問を克服することができるようになります。
また、マケドニア教会もテサロニケ教会と共に、
その地域の模範となる教会でした。
模範的な教会、すなわちみ言葉通りに生きるために頑張っている教会です。
模範的な信者、模範的なクリスチャン、模範的な教会になると、
神様が喜ばれ栄光を受けられます。
そのような教会になりますように

「とこしえに星と輝く者」

ダニエル書12:1-3

本文12章1節から読んでみると、
主末になればなるほど、
国が始まって以来かつてなかった大きな苦難・艱難と書いてあります。
勿論イエス・キリストの再臨と係りがあります。
主が再臨されますと、
この世の人々は二つの群れに分かれます。
2節に

「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」

と書かれています。
信じる者も信じない者も、皆が塵の中から目覚めます。
ある者は永遠の生命に入り、あるものは永久に続く増悪の的となる。
神様の選ばれた信じる民のために、この苦難・艱難の時間を縮めてくださる。
これが神の恵みです。
この恵みを私たちが受けると、いくら大きな苦難や艱難であっても
打ち克つことができるのは、なぜでしょうか。
それは私たちの名前が命の書に記されているからです。
(ヨハネの黙示録20:12-15)イエス・キリストが再臨されると
聖徒がまずよみがえり、
永遠の生きる霊体として変わり、
主のみ胸に抱かれて永遠の世界に入ります。
この事実をよく知っているキリスト者は、
どのように生きるべきか。

この世の最後の目的は、
一言で福音宣教です。
魂の救いの働き、教会運動です。
福音のために召されるものになれ!
という意味ではないでしょうか。
だから目覚めた人々は、大空の光のように輝き、
多くの者の救いとなり、とこしえに星と輝くと書いてあります。
み言葉をそのまま真実な言葉として受け入れる方は、
この世で星と輝く人生ではなく、
世々限りない永遠の国で、とこしえに輝く方になるというメッセージです。

「聖霊に促される生き方」

使徒言行録 20:22-24

今日、本文の内容は、パウロ使徒が第三次伝道を終えてエルサレムに帰る
旅程を記された内容であります。
元はユダヤ教の熱心党の党員だったパウロを、
主の霊が彼をキリスト者として変えてくださいました。
その上に宣教師として派遣しました。
そしてパウロの宣教における働きの最初から最後まで、
聖霊様がいつも導いてくださいました。
そしてエルサレムに帰る途中、エフェソ教会の人々に

「聖霊に促される生き方」これを強調して伝えました。
それでは皆さん、
霊に促される生き方とはどのような生活を意味しますか?
現実的な自分の考え、自分の判断、知識、自分の益がまずである。
これは聖霊の導きではありません。
み言葉中心、神中心、教会中心、
このような宣教の働きが聖霊に充される生活です。
霊に導かれるかどうか、これは意識の問題です。
聖霊様の働きなしでは、
私たちは一人の魂も主に導くことができません。
宣教という働きは聖霊の働きです。
私たちの生き方が福音宣教や、人を救う、魂を救う働きと関わりがあるか、
それが最後の目的であるか。
それが聖霊様の正しい導きです。

私たちは、聖霊の導きを分別する信仰の力が大事であります。
宣教の使命を!
主の教会をたたせてくださるその目標を!
これが聖霊がこの世に送られた目的でありますし、
聖霊に促される生き方もその目標と密接な関わりがあることを生徒の皆さん、
信じるようにお願いします。

「天の窓が開かれた」

創世記 7:1-24

以前「この時代にアナウンス」という題を持って、
マタイによる福音書24章を中心にして伝えたみ言葉を憶えておられるでしょうか?
その時ノアの時代を憶えておいて欲しいと伝えたと思います。
神様は創世記1章で天地万物を創造された時、
創造された全てのものは主に栄光を捧げる目的で、
また人間に幸せを享受させる目的で作られました。
けれど現実に今、地上で起きている環境を考えると、
それも一つの神様の自然啓示です。

唯一な神様を信じ、
その方の啓示を正しく解釈することがキリスト者の使命であり、
教会の使命です。
自然啓示は私たちキリスト者に、まず与えてくださるものです。

本文、ノアの箱船の話を知らない方は一人もおられないと思います。
歴史の中でたた一度全世界を裁判する、神様の水の裁判です。
神様が石を持って行われました

「大いなる深淵の源がことどとく裂けた」11節
これは何の意味なのか。
地球の中に隠され流れていた水が、
地球の表に全部出てきた。

「天の窓が開かれた」11節
そして神様は今の時代、この日本の地で…
私たちキリスト者が、ノアの時代の洪水の事件を通して、
信仰の目でこの自然の世界を見ると、
答えがよく解るようになります。
今の時代の啓示アナウンスとして正しく伝えなければなりません。
箱船はイエス・キリストです。
一人一人の魂を救う、イエス・キリストを信じるように伝える働き、
これがキリスト者の働きであり悟るべきメッセージです。
これが教会運動です。
そして神はどんな時代であっても、
信仰を持っている人に予め啓示してくださいます。

「主に喜ばれる者」

コリントの信徒への手紙2 5:9-15

真に救われたキリスト者なら、自分中心の生活から神中心の生活に変わり、
生きる価値観が変わります。
この時間、もう少し具体的に神中心の生活、
神様に喜ばれる福音宣教の生き方を本文を中心にして学びたいと思います。

①「私たちは必ずキリストの裁きの座の前に立たせられる時が来る」(10節)
この裁きは天に入るか地獄に行くかの裁きではなく、
主の前で私たちがどのように歩んだら本当に主に喜んで頂けるのか、
またそれと共に報いの問題です。
みなさんはその国と義の福音のために、宣教の働きのために考え、
その価値観のために生きていますか?
そのために本当に頑張っているのなら、
裁きの前に立たせられた時、
みなさんは素晴らしい神様の冠をいただくことになります。
これが救いです。
私たちキリスト者の目的は主に喜ばれること。
これが私たちの生き方です。

②「主に対する畏れを知っているからです」(11節)
11節は生徒パウロの信仰告白であり、宣教の使命感に燃えています。
主を正しく知れば知る程、その人は主に対して畏れる心を持っています。

③「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(14節)
神の愛が私たちを引続き駆り立ている目的は、
神様がご計画された福音の源であるイエス・キリスト、
その方のために生きるのがキリストの愛であるということです。
キリストの愛を誤解しないようにお願いします。
この愛を悟らせていただいた者は、
自分のために生きるのではなくその方の栄光を表すために、
その方の国が広まる目的のために生きるのです。

全ての生き方の目標が整えられますように

「今がどんな時であるか」

ローマの信徒への手紙 13:11-14

私たちは主からいただきました信仰の力があるので、
様々な試練を耐え忍んで霊的な実りの秋、
霊的な季節を迎える準備をしましょう。
本文の11節に

「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」

と書かれています。
主が再臨される時が近づくという
終末論的な意味合いで伝わっていますがそれより大切なのは、
私たちは信仰の実をたくさん結ばなければならないということ、
それは信仰の実りです。

私たちの生き方・目的は何か、
そこにいつも人生の焦点を合わせて考えなければなりません。
今の時代が悪い時代、
主の国が近づいている時代、
私たちの使命を満たさなければならない時代なら、
私たちは具体的にどのような生き方をするべきでしょうか。

①光の武具を一生懸命身につけなければならない(12節参照)
 これを身につければ悪霊を全部退けることができます。
 これは私たちのこの世の使命です。

②キリスト者の品位を持つ(13節参照)
 自分の好きなものを切って捨てる決断・勇気、
 それが私たちキリスト者の信仰であり、
 品位を守ります。

③イエス・キリストを身にまといなさい。(12節参照)
 今の時代は暗雲が空を覆っている時代です。
 暗くなればなるほど、私たちキリスト者の使命が
 大きくなるのではないでようか。

「一度しかない人生」

ルカによる福音書 16:19-31

金持ちとラザロの話はキリスト者なら、
またノンクリスチャンでもよく知っている話です。
この内容をいくら読んでもいくら説教を聞いても、
自分に対するみ言葉として悟らせていただくことができまかったらみなさん、
なんの意味があるのでしょう。

二人は死んで、ラザロは信仰の人アブラハムの胸に抱かれ天国に入りました。
しかし金持ちはラザロのいるところとは程遠い、
苦しい地獄にいました。
金持ちは納得がいきませんでした。

金持ちだから天にいけないということではありません。
貧しい人だから天に入るということも正しくありません。
むしろ聖書は一所懸命働いて不法な方法ではなく、
正しい実りを沢山結ぶことを教えます。
大切なのは、貧しい人よりも豊かな人が天に入るのはもっと
難しいという意味です。

なぜでしょうか。

貧しい人はこの世の中で頼るものがないので、
信じたらひたすら主のみ、信じる心を持っています。
けれども豊かな人、金持ちの人は見えない神より見えるものに心が奪われます。
イエス様も「金持ちが天の国に入るのは難しい」
とおっしゃいました。
信仰の問題です。

大事なことは、
ラザロが貧しい者だったのでアブラハムの胸に抱かれたことではなく、
元から主のものとして選ばれた人です。
私たちがキリスト者として確信を持っていたら、
いろいろな苦しみを受け止めなければなりません。
永遠の望み、永遠の希望があるということだけで、
生きる意味があります。
これが私たちキリスト者の生き方の素晴らしいことだと思います。
ラザロはそのような生き方を歩んだ者だと思います。

「この時代にアナウンス」

マタイによる福音書 24:36-39

私は台風11号の雨の中、
深夜に鴨川の水位を心配し周辺を見廻りました。
そのすぐ後、早天礼拝を捧げる中で堤防が崩れることを心配するより、
自然の啓示のアナウンスに耳を傾けなさい、
という神様のメッセージを受けました。
神様が私だけに聞かせてくださったメッセージではないと思いましたが、
そのときノアの箱舟を考えました。
今の時代にも台風により高速道路やJRも駄目になり
大勢の人が足止めになりました。

創世記7章10節に
「この日、大いなる深淵の源がごとごとく裂け、天の窓が開かれた」

と示されています。
このようなことはただ一度、神様が人類を裁判された時だけでした。
主なる神様は今日、本文を通して洪水の話を私たちに伝える目的ではありません。
洪水より人類の最後の裁判の内容を伝えます。
だからこそ皆さん、
洪水、この自然のメッセージを通して、
神の「現れ」としてきくことができないと本当に私たちは愚かなものです。

本文37節は
「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」

ノアの時では。
伝えてくださるそのポイントはなんでしょうか。
「人の子が来る」すなわちイエス・キリストが再臨される。
というメッセージではないのですか。
ノアの時代と同じようになると、再臨の時が近づいたことがわかります。
ノアの時代は肉の時代で、主の礼拝を捧げる姿はありませんでした。
今の時代はノアの時代と一緒です。

このような「現れ」を聴く耳を持っていなければなりません。
旧約時代のノアの箱舟の働きは教会運動です。
福音宣教運動です。私たちは神のアナウンスを世の人たちに伝えねばなりません。