「キリスト者と誓い」

ヤコブの手紙5:12

罪人である私達に使徒ヤコブは
「わたしたちの兄弟達何よりもまず、誓いを立ててはなりません。」
“何よりもまず、誓いを立ててはならない”と強調しています。

キリスト者として勝手に約束したり、
しなかったりするのは止めなさい。
約束したなら必ず守るべきであるという御言葉ではありませんか。
聖約・約束とは、神との約束です。
だけど、罪人である私達人間は弱いので、
これをよく守らないですね。今日ヤコブ使徒が伝える御言葉は、
イエス様の山上の教え、

「誓ってはならない」(マタイ5章)

と、その通りに教えています。
イエス様は本当に誓ってはならないと教えられたのでしょうか。
キリスト者の正しい誓いこそ素直なキリスト者の信仰告白であり、
自分が誓った通り行う事によって、
主なる神様と共に謙虚な信仰生活を送ることになり、
神様はその敬虔な生活を祝福してくださいます。
私達の信仰も神様に誓いながら、
その誓いを素直に守る事、これが聖書の言わんとする処です。
自己中心の軽い誓いは、主なる神様を冒涜する行為です。
信仰の良心に従って然りは然り、
否は否と素直な信仰生活をするのが良いと、
ヤコブ使徒は教えています。

「キリスト者の忍耐」

ヤコブの手紙5:7―11

この世は何処で何が起きるかわかりません。
聖書が書かれた時代も、
明日の事が見えない不安な時代でした。
キリスト者の先輩達は、天の国が早く実現されたらなぁ、
という希望を持ってー日を生きました。
ヤコブの手紙が書かれた時代の挨拶はいつもこうでした。

「主イエスよ来てください。アーメン。」默示録22-20
主イエスが再臨されると、その時こそ完全な神の国に回復されます。
今この時代は難しく、
交通事故が洪水のように起きています。
一日生きていることが、恵
みであり奇跡ではないかと思います。
今日一日、自分の身の周りで何がいつ起きるかわかりません。
私たちキリスト者は、
信仰を持って生きながらイエス様の再臨を待ち望まないと、
その信仰は嘘です。

信仰生活の中で大事なことは忍耐することです。
私達キリスト者は、この世の「時」をいつもちゃんと分別する力が必要であります。
また、預言者エレミヤの忍耐を習わなければなりません。
ヨブがどのような忍耐の人物であるか、ヨブ記を読んで下さい。
私達は、この世のつらい事にも不平不満を言わず、
忍耐しながら最後まで勝利者になりましょう。

「キリスト者の正しい物質観」

ヤコブの手紙 5:1~6

今日いただきました御言葉は、
主を知らず、主の御心が何か?
ただ肉の前に、見えるものを追い求める
全ての人達に与えられる警告のメッセージであります。

「富んでいる人たち、よく聞きなさい。
自分にふりかかってくる不幸を思って泣きわめきなさい。」
1節

キリスト者が物質に対して、どのような物質観を持つべきなのか、
という事です。
私達は御言葉に耳を傾けなければなりません。
「よく聞きなさい。」
と書いてあるからです。
ダビデが主の神殿を建築するために、大きな献金を捧げました。
聖書は、正しい信仰を持っている人がお金を持っていると、
価値のある大事な業に用いられることを教えて下さいます。

また聖書は、
「金銭の欲は全ての悪の根です。
 金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、
 さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」
 テモテ1章10節

と教えています。金銭欲ではなく、
額に汗して各々の置かれた場所で一生懸命働きなさいと教えています。
大事なことは、私達はただ物質を追い求めるために仕事をするのではなく、
信仰の中で、御心の中で仕事をし、生きる道を歩むべきだという意味です。
快楽や贅沢のみを追い求める人達には、必ず
「泣きわめく」その時が来ます。
私達がどのような環境で働き、どのような道を歩んでいても神さまが見ておられ、
憶えておられます。お金を儲けるときも、正しく働かなければなりません。
幸せなキリスト者はいつも、
自分の本分・ポジションを守る人です。

「わたしは誰なのか」

ヤコブの手紙4:11 – 12

教会へ出席し礼拝を捧げ、
キリスト者の名前を持っていても、
その共同体の中で戦いや争い、ねたみがなぜ起きるのでしょうか。
その原因は、イエス・キリストを信じながらも心の中に、
所有欲があるからです。
正しくない所有欲は、
その所有物のゆえに争いと戦いが起き、
全ての人生の幸いを奪うことになります。
所有欲は私達の人生を破滅に引っ張り破壊します。
このような破滅に引っ張られる人生にならないために、
自分が誰か、私は何者か、ということを確かに知る必要があります。

私は何者でしょうか。

「兄弟達、悪口(あっこう)を言い合ってはなりません」11節

悪口はキリスト者の口から早く切り捨てねばなりません。
悪口とは悪魔が使う言葉、あまり良い言葉ではありません。
私達は律法を定めた創造者ではありません。

「律法を定め、裁きを行う方はおひとりだけです」12節

その方こそ主なる神様です。私達は神ではありません。
創造者ではありません。真の創造者が定められたこの律法、
御言葉を見守りながら実践する実践者であります。
神を愛し隣人を愛しなさい、と神様がおっしゃれば「はい」と従順する。
これが御言葉を実践する実践者であります。
人を愛さない人は、人を裁く者となったとなったと同じです。
私達は人の立場でありながら、
神の立場になって人を裁いてはなりません

幸せなキリスト者はいつも、
自分の本分・ポジションを守る人です。

「神様の強烈な愛」

ヤコブの手紙4:4〜10

聖書が人間に伝えている一番大きなメッセージは、
主なる神様の愛です。
聖書にはご自分の民である私達を愛される「愛」について、
夫が妻を愛するように愛されると伝えています。
このような神様の愛について「強烈な主なる神の愛」と
表現したいと思います。
なぜでしょうか。
この愛は第三者が入ることの出来ない、
神様と聖徒の関係だからです。
神様が私達を愛して下さる「愛」は、
妬ましい程に深い愛です。

しかし世の友が第三者として入り、
神様を裏切りました。
私達は神様の強烈な愛に背いて世の友となってはいけません。
神様の愛を裏切らず世の友とならないためには、
どのようにすべきでしょうか。
まず高慢な者になってはいけません。

「謙遜な者になりなさい。神に服従し悪魔に反抗しなさい/6~7節」

そして神に近づきなさい。
そうすれば神は私達のところに近づいて下さいます。
悔い改めて謙遜な者になりなさい。
手を清め、心を清め主の前にへりくだりなさい。
そうすれば、主があなた方を高めて下さいます。

「キリスト者と欲望」

ヤコブの手紙4:1 – 3

共同体の中に争いと戦いがなぜ起きるのか。
それは世の知恵に従って生きると起こります。
私達が主の恵みによって救われたにもかかわらず、
私達の心の世の欲望がある限り、
正しいキリスト者の信仰生活とは言えません。

神様が私達に与えられた恵みのなかで、
祈りより大きなものはありません。
祈りは、御父なる神様との交わりです。
私達の魂を救って下さった永遠の恵みと共に、
私達がこの地上で生きる方法です。
欲望とは、
世のものを満たすために自分が持っている肉の望みです。
真の祈りによって、すべての信仰生活が変わります。
正しい祈りには神様は必ず応えて下さいます。
まず私達は、祈りを正しく習う必要があります。
この祈りは自分の欲望を充たす手段ではなく、
神様との関係です。

祈らないと、神様がどなたか解りません。
祈ってみて下さい。
神様との関係です。
神様の大きな恵みを戴いた確信を持っている人は、
自分の欲望を求めません。
祈りを通して、神様との関係を回復して下さい。

「上から出た知恵と世の知恵」

ヤコブの手紙3:13-18

キリスト者がこの世で生きる為に
必要なものがたくさんありますが、
一番大切なものは何だと思われますか。
それは知恵です。
この世は険しい世だからです。
知恵とは神様から与えられる知恵と、
地上の知恵があります。

知恵を使っている人の結ぶ実を見れば、
上からの知恵か、この世の知恵か分別することができます。
地上から出た知恵は素晴らしい知恵のように見えますが、
悪魔から出たものです。
悪魔から出た知恵は内心ねたみ深く、
利己的で嘘をつきます。
その結果、大きな問題になり、
困難やあらゆる悪い行いになります。

上から出た知恵は神様から戴いた嘘のない
純真な知恵、温和な知恵。
平和を愛し和解します。
優しく慈愛溢れる知恵です。
よく従順し、憐れみと良い実に満ちている知恵、
偏見のない知恵であり偽善的な知恵ではありません。
私達はキリスト者として確信を持って生きているなら、
上から戴く知恵によって主の民にならなければなりません。
この知恵と共に私達が生きると、
平和の人、平和を実現する人、
和解の義の実を結ぶ人になります。

「信仰と行い」

ヤコブの手紙2:14-26

私達の救いは生きておられる神様、
御子イエス・キリストを信じることによって
成し遂げられ、確信を持ってきました。
ですが、ヤコブ使徒が書かれた箇所を読むと、
全然別の話のように思われます。
どこが違うのでしょうか?

「行いのない信仰なら何の役にも立たない、死んだものです。」
と、信仰の行いを強調していることです。
今まで自分が救われたのは、
自分の行い、善、努力ではなく、
ひたすら神の恵み、
主の賜物によって救われたと信じてきました。
この時間、私達に与えて下さった箇所を通して、
生きている信仰とはどのような信仰か、
学ばせていただきたいと思います。

本質的な信仰はただ一つです。
生きる信仰、その信仰とは御言葉に従順し、
行いが伴う正しい信仰です。
また行いを通して完成されます。
アブラハムは神様のひどい命令に何も言わず、
ただ従順しました。
私達は信じることによって救われるから行わない、
祈りの生活をしない、
御言葉に従わない。
こういった罪人の世代に向けて、
このアブラハムの信仰を伝えたいとヤコブは
聖書に書かれました。
娼婦ラハブも伝道者をかくまい逃がしました。
自分の命を懸けた行いです。
真の信仰は命さえ懸ける覚悟です。
私達は、それぞれ戴いた使命によって
行わなければなりません。

行いのない信仰は、死んだものと同じです。

「あなたの神は私の神」

ルツ1:1 – 18

今日はある平凡な一つの家庭、
ベツレヘムからモアブに移った家長エリメレクと
その家族、共に異郷の地で夫に先立たれた姑ナオミ、
嫁ルツとオルパに起きた試練を通して、
神様がどのようにお働きになられたのか
耳を傾けたいと思います。

この家庭は、救いのために選ばれたイスラエルの民族でした。
夫エリメレクに従ってモアブの地に来て、
夫と二人の息子を失ったナオミは
故郷に帰ることを決心し、
亡くなった息子二人の嫁ルツとオルパに、
それぞれ自分の故郷に帰って再婚する事を勧めました。
しかし、ルツは「最後まで共に行きます。
『あなたの民は私の民、あなたの神は私の神』です。」
と信仰の決意を伝えました。
主に宣言し約束する姿です。

私達の家庭で起きている全ての事で、
偶然に起きるものは一つもありません。
その事を通して私達キリスト者は、
神の御旨がどこにあるのか、
神様の計画は何か、という事に耳を傾け、
その御旨を聞く敬虔な姿を待たなければなりません。
そのようなきっかけで福音を聞き、
唯一の神である主に出逢うかわかりません。
皆さんもナオミやルツと同じような信仰を持つべきと思います。

「子ども達」

マルコによる福音書10:13-16

イスラエルの民族が待ち望んでいた予言者、
イエス様に触れて戴き、
教えと祝福を受ける為に人々は子供をイエス様のもとに連れて来ました。
弟子達はそれを見て叱りました。
しかしイエス様は、子供達が来るのを防げる姿を見て憤り、
弟子達を叱りました。

「子供達を私の所に来させなさい。妨げてはならない。
神の国はこのような者達のものである。
はっきり言っておく。
子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。」

子供もイエス・キリストを信じないと救われません。
イエス様は、天の国に入るには、
子供達の純粋で単純な姿を知るように言われました。
私達はこの世に生まれた時から罪人です。
神様から離れた罪です。
大人達が子供達を連れてイエス様の所に来たのは、
素晴らしい福音であり祝福です。
子供達にイエス様の御言葉を聞く機会を、
親達が与える責任があります。
子供達は純粋です。
聞くとすぐに受け入れ、見るとその通り真似をします。

何を見せ、何を経験させるかは大事なことです。
子供は神の国の近くにいます。
大人も子供達と同じように、
純粋な信仰でなければなりません。
子供は次世代の主役です。
宝物です。
次世代の事を考えると、私達は子供達を連れて来て
御言葉を伝えなければなりません。