「私たちの出会い」

ローマの信徒への手紙1:11-13

救われた聖徒の生活、それは祈りの生活です。
祈りを通して神の御旨が何か、という事がしっかり解かるようになります。
神の御旨を悟らない祈りは、
自分の主観、自分の本質、自分の思いをそのまま祈っただけです。

パウロは主の御旨により、ローマへ行くことを祈りました。
私達が誤解してはいけないことは、
「神の御旨だから、成し遂げられるその時まで私はなにもしません。」と、
ただ座っている姿はあまりよくない姿です。
主の御旨であり、その答えが遅くなっても、
祈りながら今、自分がするべきことをしっかりする。
その様な人が正しい主の僕であります。
私達がそれぞれ神様から戴いた恵み、賜物は、兄弟姉妹のために、
周りの人達の為に神様が器として、必要な力として与えられた大事なものです。

パウロはなぜローマに行きたかったのでしょうか。
彼等に出会って励まし合うため、信仰によって教会で出会ったのです。
この信仰によって出会った交わりを、人間の交わりに変化させないようにお願いします。
そして教会の実り、新しい魂が主に戻って救われる実りです。
その実りの実がたくさん結ばれる教会にならなければなりません。

「キリスト者の感謝と祈り」

ローマの信徒への手紙1:8-10

神学者・内村鑑三先生は、ローマ書の講義の中で、
「7節迄が宝石を散りばめたような見事な表玄関なのだ。
そこを入ると、どんな立派な屋敷に通されるのかと思うが、
8節から長い廊下が続いている。」
と例えました。
なぜこのローマへの信徒への手紙が立派な屋敷のようにみえたのでしょうか。

「まず初めに、」という書き出しは、大事な意味を伝えています。
イエス・キリストの福音の本質を伝え、恵みと平和があるように祝福しました。
パウロはいつも忘れず神さまに感謝を捧げ、
またローマの聖徒達のために祈ることを忘れませんでした。
真の信仰は感謝であります。パウロの感謝は、
全てがイエス・キリストを通しての感謝でした。

世の感謝は自己中心ですが、キリスト者はイエス・キリストを通しての感謝です。
民族・国籍が違っても同じ価値観を持ち、会ったこともない人々や場所であっても、
お互いに神さまに感謝をします。それはあなた方の信仰が全世界に言い伝えられているからです。
私達は霊的な意味で兄弟姉妹を知り、
その方々を送って下さった神さまに、
教会を立てて下さった神さまに、感謝の祈りを捧げましょう。
お互いの為に、とりなしの祈りを捧げる聖徒となりましょう。

「真の幸せを望まれますか」

ローマの信徒への手紙1:1-4

人が、
この世で一番幸いな生き方をする秘訣は何かご存じでしょうか。
過激な表現で表すと自分がするべきことに狂うことだと思います。
自分がやるべきことに積極的な生き方をすると、幸いな人生に変わります。
聖書は、
「ローマの信徒への手紙」を通して人生を正しく狂ったイエス・キリストの僕、
使徒として選ばれたパウロを紹介しています。

パウロは、この世ではエリートとして生きていました。
ダマスコスでイエス様に出会ったその時から、
今までプライドを持って生きてきた全てのものを捨てて、
福音を述べ伝えるごとに、現実的には大きな苦しみに変わりました。
にもかかわらず、パウロはいつも、自分は幸いな者だと伝えています。
私達の本当の信仰は、イエス・キリストに出会ったその瞬間、
その時からその方を通して変わります。その方が私達の命の源であると確信出来ます。
このように、イエス・キリストを信じる方は、信じること事態が幸いであり、
その方の為に生きること事態が喜びであり、楽しい事であります。
何故でしょう?その人イエス・キリストは自分の真の主人になって下さるからです。
聖徒達の真の幸せはここにあります。
私達は、主イエス・キリストを正しく知らなければなりません。
正しく理解し、正しく信じるべきであります。正しく信じるということは、
パウロと同じ様に狂った者になるのではないかと思いますそれは、
その人の人生の幸いが保障されるということです。