「信仰の意味」

崔宰鉉牧師先生

詩編62:1-13

イエス・キリストを救い主として心に受け入れ救われた私たちにとって、
信仰とは一体どのようなものなのでしょうか。
その昔、ダビデという人が明解に説明しました。
それが詩篇62編です。
ダビデがこの詩篇を書いた時は、その人生の中で、
一番過酷な時でありました。
そのような時に、どういう信仰を持って乗り越えたのでしょうか。
二つの点について、分けて考えたいと思います。

一つ目は、信仰とは静かに神様の助けを待つことです。
「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」1節
「私の魂よ、沈黙してただ神に迎え。」6節
私たちはただ神様だけを信じて、ただ神様だけを信頼しているのでしょうか?
真の信仰とは、私たちがどれ程厳しい環境に直面しても、どれ程悔しい環境に出会っても、
沈黙して静かにひたすら神様だけを頼ることであり、
信頼することです。
ただ神様の発言を待ち望むことです。

二つ目は、真の信仰とは神様の地で自由になることなのです。
神様と共に自由になること、これが信仰なのです。
神様だけが、私たちの信仰の対象であり、
私たちは心にある全てのことを神様に告白しなければなりません。
それを通して、私たちは自由になるからです。
神様に全てのことを告白し、相談することができる関係、
それが私たちクリスチャンの一番美しい姿です。

「キリスト者の正しい物質観」

ヤコブの手紙 5:1~6

今日いただきました御言葉は、
主を知らず、主の御心が何か?
ただ肉の前に、見えるものを追い求める
全ての人達に与えられる警告のメッセージであります。

「富んでいる人たち、よく聞きなさい。
自分にふりかかってくる不幸を思って泣きわめきなさい。」
1節

キリスト者が物質に対して、どのような物質観を持つべきなのか、
という事です。
私達は御言葉に耳を傾けなければなりません。
「よく聞きなさい。」
と書いてあるからです。
ダビデが主の神殿を建築するために、大きな献金を捧げました。
聖書は、正しい信仰を持っている人がお金を持っていると、
価値のある大事な業に用いられることを教えて下さいます。

また聖書は、
「金銭の欲は全ての悪の根です。
 金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、
 さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」
 テモテ1章10節

と教えています。金銭欲ではなく、
額に汗して各々の置かれた場所で一生懸命働きなさいと教えています。
大事なことは、私達はただ物質を追い求めるために仕事をするのではなく、
信仰の中で、御心の中で仕事をし、生きる道を歩むべきだという意味です。
快楽や贅沢のみを追い求める人達には、必ず
「泣きわめく」その時が来ます。
私達がどのような環境で働き、どのような道を歩んでいても神さまが見ておられ、
憶えておられます。お金を儲けるときも、正しく働かなければなりません。
幸せなキリスト者はいつも、
自分の本分・ポジションを守る人です。