「この時代にアナウンス」

マタイによる福音書 24:36-39

私は台風11号の雨の中、
深夜に鴨川の水位を心配し周辺を見廻りました。
そのすぐ後、早天礼拝を捧げる中で堤防が崩れることを心配するより、
自然の啓示のアナウンスに耳を傾けなさい、
という神様のメッセージを受けました。
神様が私だけに聞かせてくださったメッセージではないと思いましたが、
そのときノアの箱舟を考えました。
今の時代にも台風により高速道路やJRも駄目になり
大勢の人が足止めになりました。

創世記7章10節に
「この日、大いなる深淵の源がごとごとく裂け、天の窓が開かれた」

と示されています。
このようなことはただ一度、神様が人類を裁判された時だけでした。
主なる神様は今日、本文を通して洪水の話を私たちに伝える目的ではありません。
洪水より人類の最後の裁判の内容を伝えます。
だからこそ皆さん、
洪水、この自然のメッセージを通して、
神の「現れ」としてきくことができないと本当に私たちは愚かなものです。

本文37節は
「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」

ノアの時では。
伝えてくださるそのポイントはなんでしょうか。
「人の子が来る」すなわちイエス・キリストが再臨される。
というメッセージではないのですか。
ノアの時代と同じようになると、再臨の時が近づいたことがわかります。
ノアの時代は肉の時代で、主の礼拝を捧げる姿はありませんでした。
今の時代はノアの時代と一緒です。

このような「現れ」を聴く耳を持っていなければなりません。
旧約時代のノアの箱舟の働きは教会運動です。
福音宣教運動です。私たちは神のアナウンスを世の人たちに伝えねばなりません。

「律法の目的」

ローマの信徒への手紙7:12-13

今日は律法をなぜ神様が与えてくださったのか、
その目的について私たちに伝えてくださいます。
パウロは、律法について誤解しないように何度も聖なるもの、
神様から与えられたもの、私たち民の立場からは従わなければならないもの、
だから掟と表現しています。
律法は正しくその道を歩んでいけば、
結果も善いものと書いてあります。
また、罪が限りなく邪悪なものであることが掟を通して示されました。
律法に問題があるのではありません。
罪の裏側に隠されている悪霊そのものです。
悪霊はいつも自分の正体を隠します。
そして掟を通して私たちを滅ぼすために接近しますが、
主なる神様はむしろその掟を通して、
罪と悪魔の限りなく邪悪であることを全部知らせます。
このような霊的な戦争が、私たちの心の中で起きています。
これが信じるキリスト者の霊的な戦いです。

結論として
信仰生活の中で、これから一人も誤解しないようにお願いします。
律法は、限りなく邪悪なものであることを教えてくださるために
与えてくださった、主の聖なるものであります。
律法の役割は、

・限りなく邪悪なものであること(罪・悪魔)を教えてくださった
・恵み、すなわちイエス・キリストの所に私たちを導いてくださる教育係
・主が来られる時まで、主の未旨が何か、常に私たちに教えてくださる

律法の内容を、私たちは信仰の目で学ばねばなりません。

「エッファタの恵み」

マルコによる福音書7:31-37

耳の聴こえない人は口もきけないという事実があります。
これがどれ程大きく辛いことでしょうか。
神様が私たちの体を想像された時、
なぜこのような構造にされたのかわかりませんが、
そこには大切な意味があるのではないかと思います。

本文31節にあるように、イエス・キリストの働きの場が広がり、
沢山の人々がイエス様の噂を聞き、子どもさえ大人の群れの中で共にいました。
その中で一人の耳の聴こえない人が、手を引かれてイエス様の前に案内されました。
大切なことは耳の聞こえない人にイエス様を伝えるには、
ただ伝えるだけでなく案内しなければならないということです。
現代でもラジオ・テレビ・ホームページを通して
イエス様を伝えていますが、霊的な耳が聞こえないのでは、
日本の魂は主の前に戻ってきません。
この聞こえない人に、私たちはどのような福音の伝え方をしていたのでしょうか。
接触的にイエス様の処へ、み言葉のある処まで案内してあげたのかどうか、
ということです。

礼儀やマナーを無視するのではなく、
聖書がどのように私たちに教えてくださるか、
ここに「キー」があるのではないかと思います。
時には大胆な心を持って、霊的に耳の聴こえない人を
イエス様の処に案内し、手を置いてくださるように願いましょう。
日本の社会の中で「エッファタ(開け)」という
神様の奇跡が教会から起きますように。

「エルサレムを愛する人々」

詩篇122:1-9

詩篇122編はイスラエルの王・ダビデが、
ガド人、オベド・エドム人に放置された主の箱をエルサレムに運んで、
イスラエルの民が神のみに仕えて永住を祝する心を持たせるために、
神殿に昇る歌を作って歌いました。
また、エルサレムをイスラエルの都として決めました。
それではこのイスラエルの都・エルサレムは、
霊的にどのような意味があるのでしょうか。

聖書にはエルサレムについて、
神様の処、神の国と示されています。
そして主の教会を表しています。
エルサレムを愛する人は主の家に昇ろうという時、
全ての事を置いてすぐに昇ることができます。
これが私たちの主の家を愛する、
救われた生徒の信仰の心だと思います。
私たちはこの世では王の資格はありませんが、主なる神様が私たち一人一人を
選んでくださり、永遠の都・エルサレムで生きるように祝福してくださいました。

私たちは王の王であるイエス・キリストの血潮によって、
永遠の王子になり将来、王として生きるようになります。
日常の生活が喜びの中にあっても、
悲しみの中にあっても、
私たちの永遠の主処であるエルサレム、
その都を約束されている事を考えますと満足し、
希望を持って大胆に生きることになります。
また、自分の住まいよりエルサレムの平安のために祈る人となります。

「エルサレムの平和を求めよう。
『あなたを愛する人に平安があるように』」6節

「旅人」

ペテロの手紙1:1-2

宣教の旅は大変です。
旅とは苦労が伴わないと普通の旅としての記憶しか残らないが、
苦労が伴った旅は、味わい深い宝石のような尊い記憶として残るのではないかと思います。
聖書に、私たちの人生を旅のようだと例えています。
また、その人生を生きる私たちは、旅人であると伝えています。
今日の本文は、イエス様の弟子であるペトロが、
「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」
と伝えています。

イエス様の血潮によって救われ、
選ばれた私たち、聖なる者を旅人だと表現しています。
また、別の表現で苦難の中で耐え忍ぶ事が、
後に神様から大きな報いを得ます、とペトロは強調しています。

私たちの旅には試練がつきものです。
旅において大事なものは何か、考えたいと思います。
いかに荷物を最小限に止めるか、旅人に荷物が多いと大変です。
神様が「来よ」と言われた時、
私たちには帰る本当の故郷が待っています。

「信仰の意味」

崔宰鉉牧師先生

詩編62:1-13

イエス・キリストを救い主として心に受け入れ救われた私たちにとって、
信仰とは一体どのようなものなのでしょうか。
その昔、ダビデという人が明解に説明しました。
それが詩篇62編です。
ダビデがこの詩篇を書いた時は、その人生の中で、
一番過酷な時でありました。
そのような時に、どういう信仰を持って乗り越えたのでしょうか。
二つの点について、分けて考えたいと思います。

一つ目は、信仰とは静かに神様の助けを待つことです。
「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」1節
「私の魂よ、沈黙してただ神に迎え。」6節
私たちはただ神様だけを信じて、ただ神様だけを信頼しているのでしょうか?
真の信仰とは、私たちがどれ程厳しい環境に直面しても、どれ程悔しい環境に出会っても、
沈黙して静かにひたすら神様だけを頼ることであり、
信頼することです。
ただ神様の発言を待ち望むことです。

二つ目は、真の信仰とは神様の地で自由になることなのです。
神様と共に自由になること、これが信仰なのです。
神様だけが、私たちの信仰の対象であり、
私たちは心にある全てのことを神様に告白しなければなりません。
それを通して、私たちは自由になるからです。
神様に全てのことを告白し、相談することができる関係、
それが私たちクリスチャンの一番美しい姿です。

「美しい共同体」

設立20周年感謝礼拝
田 鐘哲牧師先生

詩編 133:1-3

今日の御言葉、詩編133編は、ダビデが主の宮に登る時、
一緒に神様の御前で礼拝する兄弟姉妹達を眺めて、
とてつもない感動と恵みを受けたので詩に表したものです。
神様が与えて下さった美しい期限が二つあります。

一つは家庭です。
この家庭は、地上での幸せを味わう事が出来る美しい集りであり、
二つ目は教会です。
教会は天国の素晴らしさをこの地上で表す事が出来る、また味わう事の出来る集りであります。
私達は皆、神様の家族であります。
イエス様の十字架によって一つとなった、聖なる共同体であるという事です。
イエス様は十字架の死によって、神様と人の関係を和解させて下さる役割をして下さいました。
それによって私達は神様の子供として、家族として一つになるようにして下さったのです。
人は一人で生きる事は出来ません。共に生きていく為には秩序がなければなりません。
お互いに配慮、理解をしあった時に、共同体は維持されていく事が出来るのです。
三つ目は私達の聖なる共同体は、愛によって一つとなる事が出来ます。本文1節に

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

神様の御前に出て行く聖徒達の姿が、
いかに美しいかという事を表現しています。
イエス様は主の愛によって、只々お互いに仕えなさいとおっしゃられました。
簡単な事ではありません。
主の教会が美しい共同体として維持されていく事を、心からお祈り致します。
20周年を迎えました。
10代の幼い頃が過ぎ、20代の夢とビジョンに向かって成熟してゆく始まりであります。
主の御前に美しい共同体となる事を祝福し、お祈り致します。

「神の義が示されました」

ローマの信徒への手紙3:19-22

この地球村にある国々はそれぞれの国の法律を持っていますが、
それらの法律は聖書から由来されたという事です。
旧約のイスラエルの民に与えられた律法が
それぞれの国の憲法の基準であるという事実を、
私達は知らなければなりません。
この律法は全ての国々、民族、全ての民に平和とは何か、
悪とは何かを教えてくれる役割をしています。
律法はモーセを通して与えられた神様の御言葉ですが、
全世界の民族達に直接、あるいは間接的ぶ伝えられた神様の啓示であります。
律法を善悪の基準としてだけでなく、その意味を正しく理解した人達は、
イエス・キリストをメシアとして受け入れ救われるのです。
しかし律法の意味を知らない全ての人達は、神の裁きを逃れる事はありませんと、
パウロは宣言しています。しかし、神の義がイエス・キリストを通して表されました。
義とは旧約の律法や預言者達によって立証された義、イエス・キリストの福音です。
これが聖書に秘められた救済の福音です。

神様が御計画され、神様が導いてくださり摂理され成し遂げる、
素晴らしい義です。この義は真理です。変わる事はありません。
信じる者に与えられ、全ての民に差別がない義であります。

「神の福音の力」

ローマの信徒への手紙1:16

私達人間は完全なものではないので、
置かれた環境の中で自分だけが少し違うと思う時、恥を感じます。
今日の聖書の箇所で、パウロ使徒が生きていた環境は、
自分と全く異なる新しい環境で暮らしていました。
パウロの生き方は福音宣教の生活でした。
周りの全ての環境は異なりますけれどパウロは

「私は福音を恥としない。」

と宣言しています。
当時パウロが福音を書いたコリントという地域は、
信じるキリスト者より信じない人が多かったです。
その環境の中で「私は福音を恥としない。」と伝えます。その為、色々な受難と迫害を受けました。
にもかかわらず、パウロは「私は福音を恥としません。」と宣言したのです。
これがパウロの信仰です。
福音とはイエス・キリスト、その力です。この力とは神様から出た力です。
この力は天地万物の創造、悪魔の勢力を退ける力、
死の権勢を退けて永遠の望みを与えて下さる力です。
神様の力が福音となって、私達一人一人に与えられたのです。私達もこの福音を持って生きると、
この力を経験する事が出来るという意味です。
私達の魂を、永遠の死から救って下さるのが福音の力です。
福音は全ての人達を救う神様の力ですけれど、そこには条件があります。
福音が与えられた時、それを信じる人にその力が与えられます。
「信じる者」
それが条件です。

「負債を負っている人」

ローマの信徒への手紙1:14-15

負債、
どうしようもない時、借りるのが借金です。
また、借りると必ず返さなければならないのが借金です。
今日、私達に与えて下さいました本文を読むと、
負債を返すことが出来ず、
苦しんでいる一人の信仰の先輩に出会います。その方はパウロ使徒です。

 それは肉の生活の為の負債ではありません。
ある日、イエス・キリストに出逢い人生が変わり、大きな負債を負っている事を悟りました。
彼の借金は神さまがただで与えて下さった大きな恵み、福音の借金でした。
パウロは、自分だけがその尊く大きな恵みを受けているのは駄目だと悟り、
世の全ての人達が主から戴いた恵みを返す対象である事を悟りました。
主なる神様からの借金なのに、
なぜ神さまに返さず全ての人々に返さなければならなかったのでしょうか?
それは神さまがただで与えて下さった愛によって、私達が救われたからです。
福音宣教は私たちの借金です。
福音の借金についての責任感を持って祈り、
大胆に福音伝道が出来る聖徒になりますように。