「学者たちの贈り物」

マタイによる福音書2:1~12

旧約時代、イスラエル民族は主に選ばれた民族であり、
特別な恵みを頂いていました。
主なる神様が約束なされたメシアを待ち望みながら
その時を期待したのですが、やがて主がこの世にお生まれになった時、
彼らにはまったく反応がありませんでした。
祭司達や聖書学者達、ファリサイ派の人たちも
この日を全く感じることがありませんでしたが、
遠い東の国の名もない天文学者が星の異変を見つけました。

学者たちは預言者の言葉を思い出し、
黄金、乳香、没薬を用意し、星に従って旅に出ました。
星が導いた所はユダヤの地でした。
ユダヤの地ベツレヘムでメシアが生まれると預言者達は知っていましたが、
イエス・キリストがこの世に生まれる時、
何も準備ができていませんでした。
私達が、東の国から訪ねて来た学者達のような信仰も持って礼拝を用意しているか、
と言うことです。

現実の中で私達は黄金、つまり信仰によって山を越え、
川を渡り、谷も越えなければなりません。
私達が主の御前に信仰によって捧げる道を、
仕事が邪魔します。
世の人が邪魔します。
病が邪魔します。
けれども、主が私達に与えてくださった信仰により、
それらを越えなければなりません。

「キリスト者の使命」

ヤコブの手紙5:19-20

ヤコブの手紙を通して、現代を生きている私達にキリスト者の行い、
この世の生き方を伝えられました。
キリスト者の正しい生活が、
神から遠く離れた人の魂を救う事になるという意味です。
正しい信仰の道を歩んだ結果、
全ての選ばれた主の魂が主に戻るという神の主権的なメッセージが、
ヤコブの手紙の中に隠されています。
聖書が伝える人生としてー番価値ある尊い生き方は、
真理から離れている人達を真理に連れ戻す、
それが私達キリスト者の一番大事な生き方だと教えます。
私達はイエス・キリストの尊い血潮によって兄弟となった者です。
即ち信仰の共同体です。真理とは神の御言葉です。
真理から離れるとは、世の誘惑に迷い、あるいは負けた事を言います。
私達の立派な信仰の生活を通して、一人の魂が、
いや多くの魂が救われその罪を許される事。
これがキリスト者の二の世の使命であります。

「キリスト者の忍耐」

ヤコブの手紙5:7―11

この世は何処で何が起きるかわかりません。
聖書が書かれた時代も、
明日の事が見えない不安な時代でした。
キリスト者の先輩達は、天の国が早く実現されたらなぁ、
という希望を持ってー日を生きました。
ヤコブの手紙が書かれた時代の挨拶はいつもこうでした。

「主イエスよ来てください。アーメン。」默示録22-20
主イエスが再臨されると、その時こそ完全な神の国に回復されます。
今この時代は難しく、
交通事故が洪水のように起きています。
一日生きていることが、恵
みであり奇跡ではないかと思います。
今日一日、自分の身の周りで何がいつ起きるかわかりません。
私たちキリスト者は、
信仰を持って生きながらイエス様の再臨を待ち望まないと、
その信仰は嘘です。

信仰生活の中で大事なことは忍耐することです。
私達キリスト者は、この世の「時」をいつもちゃんと分別する力が必要であります。
また、預言者エレミヤの忍耐を習わなければなりません。
ヨブがどのような忍耐の人物であるか、ヨブ記を読んで下さい。
私達は、この世のつらい事にも不平不満を言わず、
忍耐しながら最後まで勝利者になりましょう。

「信仰と行い」

ヤコブの手紙2:14-26

私達の救いは生きておられる神様、
御子イエス・キリストを信じることによって
成し遂げられ、確信を持ってきました。
ですが、ヤコブ使徒が書かれた箇所を読むと、
全然別の話のように思われます。
どこが違うのでしょうか?

「行いのない信仰なら何の役にも立たない、死んだものです。」
と、信仰の行いを強調していることです。
今まで自分が救われたのは、
自分の行い、善、努力ではなく、
ひたすら神の恵み、
主の賜物によって救われたと信じてきました。
この時間、私達に与えて下さった箇所を通して、
生きている信仰とはどのような信仰か、
学ばせていただきたいと思います。

本質的な信仰はただ一つです。
生きる信仰、その信仰とは御言葉に従順し、
行いが伴う正しい信仰です。
また行いを通して完成されます。
アブラハムは神様のひどい命令に何も言わず、
ただ従順しました。
私達は信じることによって救われるから行わない、
祈りの生活をしない、
御言葉に従わない。
こういった罪人の世代に向けて、
このアブラハムの信仰を伝えたいとヤコブは
聖書に書かれました。
娼婦ラハブも伝道者をかくまい逃がしました。
自分の命を懸けた行いです。
真の信仰は命さえ懸ける覚悟です。
私達は、それぞれ戴いた使命によって
行わなければなりません。

行いのない信仰は、死んだものと同じです。

「思い違いをしてはいけません」

ヤコブの手紙1:12-18

私達がこの世で信仰生活を歩み乍ら、
時々神について「思い違い」をする時が多々あります。
自らキリスト者といいながら神を知らずに歩むと、
私達の一生は失敗の生活であるかもしれません。
私達は神様を正しく知る必要があります。
キリスト者がこの世で出逢う試練は、二つの種類があります。
一つは信仰を鍛え、神の御心に適う人として認められ、
最後に命の冠を与えられる為の試練。

もう一つは誘惑の試練です。
誘惑は、欲望に引かれ自ら苦しく疲れる生き方を歩事になり、
最後には死の道に至る不幸な試練であると、
聖書は伝えています。
だから私達キリスト者は、この世で出逢う様々な試練が神の摂理の中で
与えられたものか、自分の欲望からのおのか、
考えて分別せなばなりません。
愛する兄弟達、「思い違いをしてはなりません」。
自分の欲望によって誘惑を受けながらも、
その責任を神に転嫁する。
このような「思い違いをしてはなりません」。
人それぞれが持っている欲望によって誘惑に陥り罪を生み、
罪が熟して死を生みます。
良い贈り物、完全な賜物は、
御父なる神様から来るのです。
御父なる神様は真理のみ言葉によって罪と咎で死んでいた私達を新しく生んで下さり、
初穂として造り変えて下さったこの素晴らしい神様の御心を悟らず、
「思い違いをしてはいけません」