「信仰の力」

マタイによる福音書14:22-33

私たちがイエス・キリストを信じるようになったのは、
自分の力、善、努力で得たものではありません。
聖霊様が、私たちの心にみ言葉を通して動きかけてくださると、
心に信仰が生まれます。
信仰とは一言で、純粋な神のプレゼントであります。
しかし聖書は信仰について、
薄い信仰もありますし立派な信仰もあると書いてあります。
神様からいただいた同じ信仰が、
なぜ人によって薄い信仰を持っている人と、
立派な信仰を持っている人がいるのでしょうか。

薄い信仰とは、
疑う信仰:み言葉を完全に信頼することができない
「自分の考え・自分の理性的な思い、体験などを加えて人文なりに作った」
信仰。

立派な信仰とは
イエス・キリストが教えたみ言葉通りに信じる純粋な信仰。

み言葉を純粋に受け入れることができない時、信仰が薄くなります。
主は私たちの信仰が、薄い信仰から立派な信仰に成長することを望んでおられます。
立派な信仰の人として生きるとその結果は、
不可能なものが可能になります。
この世の様々な波が押し寄せますがその時、
私たちはみ言葉の内容をそのまま純粋に信じる信仰の足で、
前に進まなければなりません。
これが立派な信仰です。
薄い信仰は疑いがある信仰と先ほど伝えましたが、
疑いは可能を不可能に変えます。
一瞬でも疑いの心が入らないように、
信仰の心をいつも守ることが大切です。

「学者たちの贈り物」

マタイによる福音書2:1~12

旧約時代、イスラエル民族は主に選ばれた民族であり、
特別な恵みを頂いていました。
主なる神様が約束なされたメシアを待ち望みながら
その時を期待したのですが、やがて主がこの世にお生まれになった時、
彼らにはまったく反応がありませんでした。
祭司達や聖書学者達、ファリサイ派の人たちも
この日を全く感じることがありませんでしたが、
遠い東の国の名もない天文学者が星の異変を見つけました。

学者たちは預言者の言葉を思い出し、
黄金、乳香、没薬を用意し、星に従って旅に出ました。
星が導いた所はユダヤの地でした。
ユダヤの地ベツレヘムでメシアが生まれると預言者達は知っていましたが、
イエス・キリストがこの世に生まれる時、
何も準備ができていませんでした。
私達が、東の国から訪ねて来た学者達のような信仰も持って礼拝を用意しているか、
と言うことです。

現実の中で私達は黄金、つまり信仰によって山を越え、
川を渡り、谷も越えなければなりません。
私達が主の御前に信仰によって捧げる道を、
仕事が邪魔します。
世の人が邪魔します。
病が邪魔します。
けれども、主が私達に与えてくださった信仰により、
それらを越えなければなりません。

「イエス様のエルサレム入城」

受難主日説教 
マタイによる福音書21:1-11

イエス様がこの世に来られて、
地上で最後の過越際の為にエルサレムに上られた日を
棕櫚主日、または苦難主日・受難主日と呼ばれています。
棕櫚主日と言われる由来は、イエス様が仔ロバに乗って
エルサレムの都に入られたとき、
人々は棕櫚(ナツメヤシ)の木の枝を切って道に敷いたので、
そう呼ばれるようになりました。

イエス・キリストがエルサレムに上られたのは過越際の供え物として、
ご自身の命を捧げられる為でした。
それは御父なる神様のご計画でありました。
そしてイエス・キリストをメシヤとして信じ、
受け入れる全ての民に、
霊的な意味で永遠のエルサレム、神の御国に導くためでした。
イエス様一行が、エルサレムに近いベトファゲという所に来た時、
弟子達に仔ロバを引いてくるようにお命じになった事を通して、
イエス・キリストは全ての万物の主、
主権者である事を弟子達と民衆に宣布されました。
また、平和の主であることを宣布されました。
平和の主、イエス・キリストは自分の民に仕える為にこの世に来られました。
全ての者からホサナ、いと高きところにホサナと栄光を受けられました。
ホサナ私達の救い主に賛美を捧げましょう。
賛美を通して、主に栄光を捧げましょう。