「主に喜ばれる者」

コリントの信徒への手紙2 5:9-15

真に救われたキリスト者なら、自分中心の生活から神中心の生活に変わり、
生きる価値観が変わります。
この時間、もう少し具体的に神中心の生活、
神様に喜ばれる福音宣教の生き方を本文を中心にして学びたいと思います。

①「私たちは必ずキリストの裁きの座の前に立たせられる時が来る」(10節)
この裁きは天に入るか地獄に行くかの裁きではなく、
主の前で私たちがどのように歩んだら本当に主に喜んで頂けるのか、
またそれと共に報いの問題です。
みなさんはその国と義の福音のために、宣教の働きのために考え、
その価値観のために生きていますか?
そのために本当に頑張っているのなら、
裁きの前に立たせられた時、
みなさんは素晴らしい神様の冠をいただくことになります。
これが救いです。
私たちキリスト者の目的は主に喜ばれること。
これが私たちの生き方です。

②「主に対する畏れを知っているからです」(11節)
11節は生徒パウロの信仰告白であり、宣教の使命感に燃えています。
主を正しく知れば知る程、その人は主に対して畏れる心を持っています。

③「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(14節)
神の愛が私たちを引続き駆り立ている目的は、
神様がご計画された福音の源であるイエス・キリスト、
その方のために生きるのがキリストの愛であるということです。
キリストの愛を誤解しないようにお願いします。
この愛を悟らせていただいた者は、
自分のために生きるのではなくその方の栄光を表すために、
その方の国が広まる目的のために生きるのです。

全ての生き方の目標が整えられますように

「人は死んでも必ず復活します」

イースターの説教
コリントの信徒への手紙15:50-58

次のような実際の話があります。
あるお婆さんが亡くなりました。
葬儀のため、家族・親戚が集まっているその場で、
死んだはずのお婆さんが立ち上がりました。
みんな驚き、震えました。
お婆さんは家族一人一人に、
イエス・キリストを信じるかと尋ねました。
家族達は「はい」と答えました。
翌朝、早天礼拝に全員で参加した後、
そのお婆さんは亡くなられたそうです。

このように、
神様の特別な計画と摂理によって
一時的に生き返っても、
また死ぬのが人生です。
聖書の中にも、ラザロという人が生き返りましたが、
やはりその後なくなりました。
「死」の意味は、魂と肉体の別れです。
イエス様が再臨されたとき、私達も霊的に復活します。
神様を信じて死んだ人の裁きは報いを受ける裁き。
信じないで死んだ人の裁きは永遠の死、
深刻な「死」とは神様と永遠の別れをすることです。
神様の哀れみを受けない、
永遠の苦しみ(地獄)に落ちます。
私達が復活した霊体は、
自分が死んだ事も知る事ができない体です。
信仰とは、
神様が御子イエス・キリストを通して与えて下さったのです。
復活を信じるキリスト者も、信じない者も復活します。
大事な事は、永遠の復活として生きるか、
死の復活として生きるかの問題です。