「律法の目的」

ローマの信徒への手紙7:12-13

今日は律法をなぜ神様が与えてくださったのか、
その目的について私たちに伝えてくださいます。
パウロは、律法について誤解しないように何度も聖なるもの、
神様から与えられたもの、私たち民の立場からは従わなければならないもの、
だから掟と表現しています。
律法は正しくその道を歩んでいけば、
結果も善いものと書いてあります。
また、罪が限りなく邪悪なものであることが掟を通して示されました。
律法に問題があるのではありません。
罪の裏側に隠されている悪霊そのものです。
悪霊はいつも自分の正体を隠します。
そして掟を通して私たちを滅ぼすために接近しますが、
主なる神様はむしろその掟を通して、
罪と悪魔の限りなく邪悪であることを全部知らせます。
このような霊的な戦争が、私たちの心の中で起きています。
これが信じるキリスト者の霊的な戦いです。

結論として
信仰生活の中で、これから一人も誤解しないようにお願いします。
律法は、限りなく邪悪なものであることを教えてくださるために
与えてくださった、主の聖なるものであります。
律法の役割は、

・限りなく邪悪なものであること(罪・悪魔)を教えてくださった
・恵み、すなわちイエス・キリストの所に私たちを導いてくださる教育係
・主が来られる時まで、主の未旨が何か、常に私たちに教えてくださる

律法の内容を、私たちは信仰の目で学ばねばなりません。

「エッファタの恵み」

マルコによる福音書7:31-37

耳の聴こえない人は口もきけないという事実があります。
これがどれ程大きく辛いことでしょうか。
神様が私たちの体を想像された時、
なぜこのような構造にされたのかわかりませんが、
そこには大切な意味があるのではないかと思います。

本文31節にあるように、イエス・キリストの働きの場が広がり、
沢山の人々がイエス様の噂を聞き、子どもさえ大人の群れの中で共にいました。
その中で一人の耳の聴こえない人が、手を引かれてイエス様の前に案内されました。
大切なことは耳の聞こえない人にイエス様を伝えるには、
ただ伝えるだけでなく案内しなければならないということです。
現代でもラジオ・テレビ・ホームページを通して
イエス様を伝えていますが、霊的な耳が聞こえないのでは、
日本の魂は主の前に戻ってきません。
この聞こえない人に、私たちはどのような福音の伝え方をしていたのでしょうか。
接触的にイエス様の処へ、み言葉のある処まで案内してあげたのかどうか、
ということです。

礼儀やマナーを無視するのではなく、
聖書がどのように私たちに教えてくださるか、
ここに「キー」があるのではないかと思います。
時には大胆な心を持って、霊的に耳の聴こえない人を
イエス様の処に案内し、手を置いてくださるように願いましょう。
日本の社会の中で「エッファタ(開け)」という
神様の奇跡が教会から起きますように。

「エルサレムを愛する人々」

詩篇122:1-9

詩篇122編はイスラエルの王・ダビデが、
ガド人、オベド・エドム人に放置された主の箱をエルサレムに運んで、
イスラエルの民が神のみに仕えて永住を祝する心を持たせるために、
神殿に昇る歌を作って歌いました。
また、エルサレムをイスラエルの都として決めました。
それではこのイスラエルの都・エルサレムは、
霊的にどのような意味があるのでしょうか。

聖書にはエルサレムについて、
神様の処、神の国と示されています。
そして主の教会を表しています。
エルサレムを愛する人は主の家に昇ろうという時、
全ての事を置いてすぐに昇ることができます。
これが私たちの主の家を愛する、
救われた生徒の信仰の心だと思います。
私たちはこの世では王の資格はありませんが、主なる神様が私たち一人一人を
選んでくださり、永遠の都・エルサレムで生きるように祝福してくださいました。

私たちは王の王であるイエス・キリストの血潮によって、
永遠の王子になり将来、王として生きるようになります。
日常の生活が喜びの中にあっても、
悲しみの中にあっても、
私たちの永遠の主処であるエルサレム、
その都を約束されている事を考えますと満足し、
希望を持って大胆に生きることになります。
また、自分の住まいよりエルサレムの平安のために祈る人となります。

「エルサレムの平和を求めよう。
『あなたを愛する人に平安があるように』」6節

「旅人」

ペテロの手紙1:1-2

宣教の旅は大変です。
旅とは苦労が伴わないと普通の旅としての記憶しか残らないが、
苦労が伴った旅は、味わい深い宝石のような尊い記憶として残るのではないかと思います。
聖書に、私たちの人生を旅のようだと例えています。
また、その人生を生きる私たちは、旅人であると伝えています。
今日の本文は、イエス様の弟子であるペトロが、
「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」
と伝えています。

イエス様の血潮によって救われ、
選ばれた私たち、聖なる者を旅人だと表現しています。
また、別の表現で苦難の中で耐え忍ぶ事が、
後に神様から大きな報いを得ます、とペトロは強調しています。

私たちの旅には試練がつきものです。
旅において大事なものは何か、考えたいと思います。
いかに荷物を最小限に止めるか、旅人に荷物が多いと大変です。
神様が「来よ」と言われた時、
私たちには帰る本当の故郷が待っています。

「信仰の意味」

崔宰鉉牧師先生

詩編62:1-13

イエス・キリストを救い主として心に受け入れ救われた私たちにとって、
信仰とは一体どのようなものなのでしょうか。
その昔、ダビデという人が明解に説明しました。
それが詩篇62編です。
ダビデがこの詩篇を書いた時は、その人生の中で、
一番過酷な時でありました。
そのような時に、どういう信仰を持って乗り越えたのでしょうか。
二つの点について、分けて考えたいと思います。

一つ目は、信仰とは静かに神様の助けを待つことです。
「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」1節
「私の魂よ、沈黙してただ神に迎え。」6節
私たちはただ神様だけを信じて、ただ神様だけを信頼しているのでしょうか?
真の信仰とは、私たちがどれ程厳しい環境に直面しても、どれ程悔しい環境に出会っても、
沈黙して静かにひたすら神様だけを頼ることであり、
信頼することです。
ただ神様の発言を待ち望むことです。

二つ目は、真の信仰とは神様の地で自由になることなのです。
神様と共に自由になること、これが信仰なのです。
神様だけが、私たちの信仰の対象であり、
私たちは心にある全てのことを神様に告白しなければなりません。
それを通して、私たちは自由になるからです。
神様に全てのことを告白し、相談することができる関係、
それが私たちクリスチャンの一番美しい姿です。

「キリスト者の感謝と祈り」

ローマの信徒への手紙1:8-10

神学者・内村鑑三先生は、ローマ書の講義の中で、
「7節迄が宝石を散りばめたような見事な表玄関なのだ。
そこを入ると、どんな立派な屋敷に通されるのかと思うが、
8節から長い廊下が続いている。」
と例えました。
なぜこのローマへの信徒への手紙が立派な屋敷のようにみえたのでしょうか。

「まず初めに、」という書き出しは、大事な意味を伝えています。
イエス・キリストの福音の本質を伝え、恵みと平和があるように祝福しました。
パウロはいつも忘れず神さまに感謝を捧げ、
またローマの聖徒達のために祈ることを忘れませんでした。
真の信仰は感謝であります。パウロの感謝は、
全てがイエス・キリストを通しての感謝でした。

世の感謝は自己中心ですが、キリスト者はイエス・キリストを通しての感謝です。
民族・国籍が違っても同じ価値観を持ち、会ったこともない人々や場所であっても、
お互いに神さまに感謝をします。それはあなた方の信仰が全世界に言い伝えられているからです。
私達は霊的な意味で兄弟姉妹を知り、
その方々を送って下さった神さまに、
教会を立てて下さった神さまに、感謝の祈りを捧げましょう。
お互いの為に、とりなしの祈りを捧げる聖徒となりましょう。

「その御名のために」

ローマの信徒への手紙1:5

イエス・キリストは真の神さまでありながら、
人間の姿で人間としてこの世に来られ、
私達の全ての罪を許して下さるために死なれ、
罪人である私達と聖なる神様の間を結びつけて下さった、
永遠の救い主であります。
私たちの人生の中でただ一度しか聞こえない、
伝えられない喜びのニュースをどう聞くようになり、
悟らせて戴いたのでしょうか。

「わたしたちはこの方により」15節
「この方」とは主イエス・キリスト、その恵みを受けて信じる者となりました。
キリスト者を憎み迫害したパウロが、
キリスト者の前に立ち福音を伝える働きをするようになり、
狂った人と言われました。
イエス・キリストの御名の為に生きる。

一言で言うと、宣教、福音伝導、証人の生き方、
それがその名の為に生きる人生であるという意味です。
皆さんは宣教の働きの為に繋がるような生き方をされていますか。
「御名の為に生きる」とは、福音を伝える事です。
キリスト者は自分の生活の中で、何より礼拝を大切な優先順位として決めます。
救われた、恵まれた者として一番大切な事は、主に捧げる礼拝です。
礼拝は心です。
また、福音宣教の為に生きようと頑張る生き方ではないでしょうか。
教会の目的は主に礼拝と栄光を捧げる事、もう一つは宣教です。

「今がどんな時代であるかを知っている人」

ローマの信徒への手紙

キリスト者はどこに住んでいても自分が住んでいる時代、
自分が今生きているその時を、知らなければなりません。
霊的な分別力、わきまえる知恵を持っている人であることを、
パウロ使徒は伝えています。
私達が今生きている時代は、どんな時代か知っておられますか。
本文は今この時代は非常の時であるという事を暗示しています。
イエス・キリストの救いの完成の日が近づいて来ます。
「永遠の神の国に入る日が近づいた」という意味です。
その時、まだ信じていない人達はどうなるのか、
だから私達はこの徴しを通して、一人でも福音を聞いて、
主に戻るように導く私達の使命が大事であります。
終末の徴しについて

「人に惑わされない様に気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れる」
マタイ24:4-14

福音が全ての民族に宣べ伝えられると主は再臨されます。
だから私達キリスト者は、
主イエス・キリストの御心にかなう衣を身に付けなさい。
自分の信仰の品位を守りながら歩みなさい。

「キリスト者の使命」

ヤコブの手紙5:19-20

ヤコブの手紙を通して、現代を生きている私達にキリスト者の行い、
この世の生き方を伝えられました。
キリスト者の正しい生活が、
神から遠く離れた人の魂を救う事になるという意味です。
正しい信仰の道を歩んだ結果、
全ての選ばれた主の魂が主に戻るという神の主権的なメッセージが、
ヤコブの手紙の中に隠されています。
聖書が伝える人生としてー番価値ある尊い生き方は、
真理から離れている人達を真理に連れ戻す、
それが私達キリスト者の一番大事な生き方だと教えます。
私達はイエス・キリストの尊い血潮によって兄弟となった者です。
即ち信仰の共同体です。真理とは神の御言葉です。
真理から離れるとは、世の誘惑に迷い、あるいは負けた事を言います。
私達の立派な信仰の生活を通して、一人の魂が、
いや多くの魂が救われその罪を許される事。
これがキリスト者の二の世の使命であります。

「わたしは誰なのか」

ヤコブの手紙4:11 – 12

教会へ出席し礼拝を捧げ、
キリスト者の名前を持っていても、
その共同体の中で戦いや争い、ねたみがなぜ起きるのでしょうか。
その原因は、イエス・キリストを信じながらも心の中に、
所有欲があるからです。
正しくない所有欲は、
その所有物のゆえに争いと戦いが起き、
全ての人生の幸いを奪うことになります。
所有欲は私達の人生を破滅に引っ張り破壊します。
このような破滅に引っ張られる人生にならないために、
自分が誰か、私は何者か、ということを確かに知る必要があります。

私は何者でしょうか。

「兄弟達、悪口(あっこう)を言い合ってはなりません」11節

悪口はキリスト者の口から早く切り捨てねばなりません。
悪口とは悪魔が使う言葉、あまり良い言葉ではありません。
私達は律法を定めた創造者ではありません。

「律法を定め、裁きを行う方はおひとりだけです」12節

その方こそ主なる神様です。私達は神ではありません。
創造者ではありません。真の創造者が定められたこの律法、
御言葉を見守りながら実践する実践者であります。
神を愛し隣人を愛しなさい、と神様がおっしゃれば「はい」と従順する。
これが御言葉を実践する実践者であります。
人を愛さない人は、人を裁く者となったとなったと同じです。
私達は人の立場でありながら、
神の立場になって人を裁いてはなりません

幸せなキリスト者はいつも、
自分の本分・ポジションを守る人です。